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NPO法人神田雑学大学 定例講座No.664 2013年9月20日 

講義名 土木の仕事に携わって50年 ダム〜東京湾横断道路
講義名 土木の仕事に携わって50年 ダム〜東京湾横断道路


         もちづき・しょうじ さん
講師 望月將地(もちづき・しょうじ) さん


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講師紹介

講師プロフィール

1、土木とは

2、いざ!現場へ 初めての現場ダム
(群馬県利根郡利根村 S38.4〜S41.3)

2番目の現場 利根川河口堰
(千葉県香取郡東庄町 S41.4〜8)

3番目の現場 水窪トンネル
(岡県磐田郡水窪町大嵐 S41,9〜S44,4)

4番目の現場 東急新玉川線
(東京都世田谷区三軒茶屋 S44.5〜S47.3)

5番目の現場 京王線新宿駅
(東京都新宿区 S47.4〜S50.11)

6現場目 共同溝工事
 (東京都練馬区 S50.12〜S52.3)

土木東京支店、土木部長として


●講師紹介(吉田源司統括理事) 
今回のテーマである土木は、ふだん、みなさんには直接、馴染みがないと思われます。あの「海ほたる」などを建設するなど、 土木一筋50年の望月さんに、ダムや地下鉄工事などのご体験を通じて、その土木人生をぜひ語っていただきたいと思い、お招きいたしました。 この半世紀における、機械・技術の進歩や労務供給体制などの変化は目を見張るものがあります。 けれども、望月さんによりますと、現場での、地元の方々・得意先・作業者・施工者といった人間関係の基本は変わっていない、ということです。 土木をとりまく、さまざまな人間模様は、とても奥深いものがあります。では、よろしくお願いいたします。

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講師の望月將地(もちづき・しょうじ) さん ●講師プロフィール 
1940年東京生れ。1963年東京都立大学(土木)卒、清水建設入社。ダム、トンネル、河口堰、地下鉄(開削式)、配水池、下水処理場、造成工事、 土砂ナトムなど各種工事担当。土木(東京湾横断道路等)、見積、安全部長。1997年片山ストラテック(鉄骨橋梁)、 2003年武蔵野種苗園(造園種苗)。2011年板橋区ホタル生態環境館ボランティアとして、国産クロマルハナバ飼育・ナノ銀による放射能除染実験実施。






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1、土木とは
パワーポイントによる説明(ダムの歴史と役割)

大学の先生は、「四大文明の発祥地で、科学・技術が発展し、天文学・農業などが学問として確立していった。あとに残ったものが全部土木である」という。 英語では、civil engineering = 国民の工学 日本語は、土と木を使う工学(英語は、誰のため、日本語は、使うもの) 「ブリタニカ」を調べると、civil engineeringは資源開発、都市、交通、防災等に関する施設の建設計画、設計、施工を研究する学問。工学として意識されるようになったのは、仏が最初で、1747年橋梁道路学校が設立されてから。

その後、1771年、英国で、軍事工学(military engineering)に対抗して生産と交易のための民事工学としての、civil engineering(土木工学) という語が生まれた。 日本語の「土木」は、土木学会初代会長古市会長が、明治末から大正初期ころ、中国の淮南子(エナンジ、中国前漢の高祖の孫、淮南(イナン)王劉安が紀元前140年頃、編集させた論集)の中の『築土構木』からとったもの。

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2、 いざ!現場へ
●初めての現場 ダム
 (群馬県利根郡利根村 S38.4〜S41.3)
パワーポイントによる説明(薗原ダム)
初めての現場は、薗原ダムで、群馬県利根郡利根村にあり、沼田駅からバス1時間かかりました。 当時の単身赴任三点セットは、茶箱・行李・布団袋。リース布団は、まだなし。研修5日目、3名が所長に連れられて群馬県の沼田駅へ。 迎えのジープで現場へ。途中で出会う女性はスカートをはいている人が一人もいないのにびっくりした。

当日、宿舎の食堂で歓迎の一杯会。娯楽室で麻雀など。新入社員は食堂に残って飲んでいる先輩とおつきあい。その時の教えより。
1. 遅刻は絶対にするな。本社や支店に勤めることになったら、「10分遅れるなら電話をかけて休んでしまえ」。
2. 酒を飲んだ翌日は、誰よりも早く現場へ行け。
3. 結婚相手は、器量や性格で選ぶな。われわれの使命は現場を守ることだ。台風など現場に何かあれば、現場に駆けつけなければならない。 だから、自宅のことは嫁さん一人でやってもらわなければならない。丈夫で強い性格の女性を選べ。

妻につきましては、先輩の教えどおりに選びました。ちなみに、庭木の剪定は、脚立の上は妻、下で抑えるのが私です。 畳の下の板が、べかべかになった時、近くの大工さんに見積もりを取ったところ、その半額でやるから請け負わせてくれ、 と妻が言って、ついに一人でやって、そのお金で私にご馳走してくれました。 その現場には、ちょうど丸3年おりました。その時々の出来事をご紹介いたします。

1.現場の全休日は、毎月6日の1回だけ
6日というのは、毎月5日の作業終了後に作業員に給料が現金支給されるため。当日は、出稼ぎの人は、郵便局から自宅に送金し、 沼田へ行って買い物や映画を観ました。独り者の遊び人は、新潟競馬か前橋競輪へ行って、すって沼田から歩いて帰ってくる。 まじめなひとりものは、沼田へぶらりと。その帰り、新月で暗ければ、棒切れをのり面に充ててくれば、川に落ちないとか、冬で寒ければ、 新聞紙を二重に胸から下に巻いて来れば寒くないなどと、教えられました。

2.山の神様の休養日
画面を見ながら講義を聞いている皆さん 1日と15日で、この日は山で伐採・枝払いはしてはいけない。林業の人も休む。夕食には今までの無事とこれからの安全を祈ってお酒を飲む。

21年目の冬
宿直のときは、事務所と宿舎が分かれているので、事務所1階の宿直室で麻雀をやりました。とても寒いので、 下に布団を敷き、その上で麻雀卓を囲みました。しばらくして煙が出で、敷いた布団に落とした煙草の火が綿を焦がしたので、 そこを抉って水をたっぷりかけて、麻雀を続けました。

30分もするとまた煙があがり、もう麻雀をする状態ではなく、一人を電話番において、その布団をもって村はずれの川に行き、綿を小さく千切っては投げ、千切っては投げてすべて川に流しました。 敷布団が1枚なくなったのは、誰もわからず、「沈黙は金」という格言はまさにその通りでした。

3.三師三方
酒を飲みながら、先輩方はいろいろ教えてくれました。この「サンシ サンカタ」の教えは、周囲から自分たちがどう見られているかを常に念頭に置いて、地元・得意先の人たちには誠意をもって対応するようにと、先輩たちから言われたそうです。

三師 山師     三方  船方
    詐欺師        馬方
    請負師        土方

こうした教えにもあるように、人に蔑まれるような土木に、歴史上の有名な人物もかかわっています。それは、俳人松尾芭蕉です。 桃青と名乗っていた34〜37歳まで、神田上水の小石川後楽園から現在の三越本店の裏あたりまでの改修と清掃を任されていました。

当時は、制作・設置までは、御上(おかみ)の仕事で、そのあとの維持管理は受益者負担でした。必要な作業員は、受益者が受け持つが、 商家の人は自分が作業する代わりにお金を出していました。立派な「現場代理人」です。その不足作業員の手配も芭蕉はきっちりやり遂げました。 ちなみに、現在の水道は、金魚を飼っており、その金魚が死ねば、すぐ断水にして、都民の命を守っています。芭蕉の当時は鯉を飼って、 鯉に異常があれば給水を停止しました。

4.2年目の春 
時々、先輩に連れていってもらう小料理屋さん。昨年入った二人の芸妓さんの中に可愛い人がいて、電話番号を聞いていたので、休みの日、沼田の公衆電話から電話しました。生まれて初めての女性への電話。おかみさんが出て、若い芸妓さんは外出中、あとで連絡するので名前をといわれ、そこで本名をいうと、上司にわかってしまうからと、思わず偽名をいいました。このことが、10年後のある事件の解決につながるとは……。

5.2年目の夏
午後8時頃、まだ早いので、2階の事務所にいるとき、隣の診療所のおばさんから電話で、「酔っぱらいが、玄関をどんどん叩いている。 なんとかしてほしい」。ここは、ダム建設で人口が400人以上増えたので、利根村が建てた診療所に千葉医大の医師が泊り込みでいます。 辺地の診療所に行ってみると、手拭いで鉢巻し、上半身裸の作業員が、酔って玄関前のたたきに伏せてたわごとをいっています。 しようがないなあと思い、「ほら起きてよ」と手をかけようとすると……。

その後、被害者の相棒が酩酊状態で『シノ』をもって、「ヤツはどこだ!」 とやってきました。1時間後、石川島の現場代理人が、加害者を捕まえてきました。その頃、警察が「終わりましたか?」と、 やってきました。代理人は、大学でボクシングのモスキート級のチャンピオンでした。

6.3年目の冬 石の上にも三年
昭和40年10月、竣工式も終了し、当社関連業者も撤退し、社員も私と現地採用の2人だけとなりました。来年の3月全工事完了まで、 地元業者だけで完成させなければなりません。資材を頼んでも足元を見られます。作業員も酔って出てこない。工程が遅れてくる。 相談する相手もいない。夜はとても寒く、行火を抱いても背中が寒く、夜中に目が覚めると朝まで眠れませんでした。

もうやっていけないと思い、やめるつもりで2月中旬に東京へ帰りました。大学の先生に会ったあと、義兄のところへ寄り、やめたいといったところ、 義兄は開口一番、「將地、おまえはやめないよ。相談相手がほしかっただけだろ」「えっ」「辞めるつもりなら、布団袋も行李も持ってくるはずだろ」 ……胸のつかえが下りたように、スーッとしました。

その日の最終便ですぐ現場に帰り、現場を空けたことを詫び、必死で工事の遅れを取り戻し、工期内に完成させることができました。 それ以後、大変だと思うから大変なのであり、やり遂げる意志があれば、たいていのことはできる。それと、愚痴を聞いてくれる人がいればなお良い、 という考えに変わりました。

ちょうど満3年を直前にした時だったので、「石の上にも三年」という言葉を自分のものにしたような気分になりました。その後、 自分の部署に入ってきた新人には、「どんなに辛くても、3年間は絶対我慢してくれ」といってきました。

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●2番目の現場 利根川河口堰(千葉県香取郡東庄町 S41.4〜8) 
現場は、河口にある銚子から14キロ上流のところで、満潮時には海水が逆流してくる感潮河川なので、水門と橋梁をつくりました。 ダムの現場でお世話になった宿舎の地主さん、お店、電話、電話局、郵便局など、近隣の方々に挨拶し、宿舎を解体し、猫の家族2組に別れを告げました。

地元の方々に、「また、仕事に来てね!」といわれ、3年住み慣れた南郷の地を後にしました。地元の方から、「また来てね!」といわれるのは、 土木の施工をするものにとって最高の喜びです。

ここは、かの有名な「天保水滸伝」の一方の雄「笹川の繁蔵」の拠点。笹川繁蔵記念館(現在は天保水滸伝遺品館)があります。 作家の子母沢寛が、「笹川の繁蔵」の取材のとき、飯岡の助五郎のところに「座頭の市」という盲目の剣士がいたと地元の古老から聞き、 『座頭市』を書いています。

1.ケーソンの担当に
経験者である課長からの注意事項。トンネルの作業員は入れないように。ケーソンの事故は、刃口に呑み込まれることと圧気事故が多い。 いざとなると、潜函工は中央に逃げますが、トンネルの工夫(コウフ)は脇に逃げる。これは、刃口に呑み込まれて重大事故のもとになります。

2.遠洋漁師
所長について、タクシーで飲みに行くのは銚子のキャバレー。空いていてよい雰囲気。楽しかったが、5,6人の客が入ってくると女性全員がそちらに 行ってしまいます。ボーイに聞くと、遠洋の漁師さんたちが本日帰国したのだという。彼らの懐はあたたかく、相手にならず。 すごすご帰りました。それ以後、漁船の入港の有無の確認後、キャバレーに行くことにしました。請負師は漁師には勝てないのです。

3.深夜の直訴
6月ごろ、小見川へ新入社員3人を連れて飲みに行きました。この現場で初めて会った直属の上司のやり方が気に入らない。任せてくれないのだ。 ダムの現場で一皮むけたと自負している自分にとって、どうも物足りない。彼の上には、ダム工事のときの上司がいました。 飲んだ勢いで、夜中の1時に3人でダムの上司の部屋に行きました。布団に入り本を読んでいた上司に、直属の彼のもとでは仕事ができないと訴えました。 ダムの上司は、怒らず聞いてくれました。

4.巻紙の手紙
好きな女性ができました。農家の娘さんで、弟がいるといいます。結婚するつもりで先方のお父さんと会いました。しばらくして、分厚い封書をもらいました。 時代劇で見るような、立って読むと床に着くような長さでした。彼女からは、「逃げるなら一緒についてゆく」といわれましたが、 自分にはそこまでの勇気がありませんでした。

5.半年で転勤
8月中旬、ダムの時の上司(直訴した上司)から、天竜川のトンネルの現場に行くよう指示がありました。その時は、 山奥の現場を一人でやってきた実績を買われての転勤だと思っていましたが、今回の講演の準備のため、あらためて経過を振り返ってみたら、 腕を見込まれた転勤ではなく、直訴と女性問題が原因で、飛ばされたような気がしてきました(笑)。

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●3番目の現場 水窪トンネル(岡県磐田郡水窪町大嵐 S41,9〜S44,4) 
熱心に聞き入る聴講生 天竜川水系水窪川の発電所で使用した水をトンネルで佐久間ダムに流し、再度発電に利用するための放水路トンネル工事(国鉄飯田線大嵐駅から 放水路まで約4キロ)です。所長以下4名で佐久間駅前旅館に泊まり調査。佐久間ダム(昭和31年竣工)の時は、ケンカなどで大荒れだったようです。 大嵐駅の国鉄用地の斜面を借りることとなりました。

1.テレビのケーブルを引きに山へ登って……
電気屋さんにお願いして、アンテナを建てに行ってもらったが、途中で引き返してきました。サルの群れが、見下ろしていたので止めた、とのこと。 サルは利口で、白い車の運転手に石を投げられると、白い車が来ると石を落とすなど仕返しをします。

2.皇太子様(当時親王)の浜松市内視察
視察の事前に、警察が火薬類の調査に抜き打ちで来ました。許容量を残して裏山に隠したところ、警官に見つかり、謝らずに「人間だもの、 間違えることだってあるさ」と開き直ってしまいました。所長に謝罪に行ってもらい、大事にならずにすみました。

3.夜、飯田線大原トンネル(延長5,063メートル)をサンダルで歩いて帰る
仕事が終わって、午後7時35分大嵐駅発上りで水窪駅に飲みに行くと、午後9時10分水窪発の下り最終には乗れません。したがって、 延長5キロの大原トンネルを歩かなくては帰れません。タクシーは、水窪〜大嵐間に道がなく、大回りして1時間ほどかかります。

飲み屋からトンネル入り口まで1キロ、トンネル5キロ、計6キロ。午後10時半に店を出れば12時には帰れる。しかし、トンネルの中は真っ暗で歩きにくい。 砂利、60センチ間隔の枕木に足をとられ、酔っていて足元ふらつきます。出口付近には自殺跡。 オシッコをするときは、進行方向を向いたまま用を足すこと。壁に向かうと、間違っていまきた方向へ戻ってしまうことがあると、 大嵐駅の駅員が教えてくれました。 大嵐側の出口付近で失恋した工夫がダイナマイト自殺をして、壁に張り付いた肉片の処理が大変だったと聞いており、1人歩きは非常にこわい。 それでも酒と女性の力には勝てず。また。飲みに行きました。

4.破砕帯に遭遇
そのため、掘っても掘っても、押し戻されてしまう。なんとか切羽の水を止めなくては……。掘削面を鏡止めして、少しずつ面積を奥行き50センチ掘って ゆくが、押し出してくる土のほうが多く、掘削深さはマイナスだが、出来高報告は日進1メートルと報告する。杉の葉、 は水を通すが土は通さないと作業員の経験者から聞き、地元の森林組合の責任者に頼んで杉の葉を入手。ようやく少しずつ進むようになってきました。

5.巡回映画の販売人が作業員宿舎で急死
この現場に、亡くなった人のライバル企業(組)の幹部がトンネル工事の世話役でいました。殺されたと相手企業が思い込み、 「殴り込みがある」とのことになり、皆逃げてしまった。誰もいなくなったが、得意先には内緒。日進は1メートルと報告。

6.貫通点の立会
明日、貫通式で電源開発所長が立会する、貫通点にズレはないか? 貫通点の手前40メートルから幅を25センチ広げて支保工をセット。 掘削量とコンクリート量は増えるが、左右25センチのずれは吸収できます。深夜、岩の厚み1.5メートルの反対側で待っていると、 音・声があちこちから聞こえます。幅はともかく、高さを間違えたと思い、布団袋をもって逃げ帰れなければ……と一瞬は考えました。

7.野生のサルの群れ
サルの群れが午後降りてくると、明日は必ず雨が降るといわれました。たまに夕方、サルの家族が、山から下りてきて柿などを食べて、 山に上がっていきます。やはり、次の日は雨。明日の作業も雨を前提に組み替えます。どんな予報よりも正確でした。

8.紅葉の一番素晴らしい時は?
昭和41,42,43年と3年間見続けた結論は、紅葉の最高の日は、2日ぐらいしかない、ということ。それを過ぎると急激に“汚く”なる。しかし、 そこへ来た人には、素晴らしい紅葉に見えるようです。

9.裕次郎の映画「黒部の太陽」
黒四ダム大町トンネル(5,430メートル)掘削の主人公・石原裕次郎の背中を見ました。水窪町には、この工事に合わせて2軒の店ができました。 1件はカウンター席だけの店、もう1軒はカウンター席とテーブルで20人程度は入れる店。後者で、映画の主人公は各社の所長たちと飲んでいました。 後姿でしたが、すごく大きな人に見えました。店の美人ママが彼女らしいとの噂あり。

10.昭和43年9月の台風直撃
そのため、坑口をつぶされました。工期(44年4月5日)延伸は? 復旧のための費用は?工事保険は? 結局、工期は4月30日に延期となりました。

11.昭和44年4月19日の小生の結婚式は?
当初、4月5日までが工期だったので、兄に頼んで1年以上前に式場を予約。式の前日、お昼頃に現場を出て、夜8時頃に自宅着。翌日の結婚式は、 4月には珍しい大雪。現場の人たちは、昼夜間、突貫工事のため、式には出られず。当日、熱川に一泊。20日に熱川のバナナワニ園を見て、水窪に帰着。 翌21日から徹夜作業。「新婚旅行に連れて行ってもらっていない」と時々、妻からいわれます(笑)。

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●4番目の現場 東急新玉川線(東京都世田谷区三軒茶屋 S44.5〜S47.3) 
路面電車だった玉電を地下に入れ、高架で東名高速道路を通すという工事でした。

1.第三者が近くに居すぎる
それまでの山の現場では、工事場所には一般の人は近寄ってこなかった。しかし、道路上の工事では、杭打機のすぐ隣1メートルもないところを バスやトラックや乗用車が走り、バリケードの横をベビーカーを押すママさんたちが通り過ぎていきます。ひとつ間違えば第三者事故につながります。 長さ50メートルの作業帯の両側が、いや全周が第三者との接触注意区域です。とても息が詰まります。

2.近くに資材置き場がない
当日、夜間に使う資材(埋戻砂、砕石、アスファルト)が事務所にありません。夜間作業時間帯は、午後8時から翌朝6時まで。 入場時間の電話注文は、10日の夜勤で夜中2時現場着なら、「10日の26時現場着で!」といわないと日にちを間違えられてしまいます。

3.井戸枯れ
それは、掘削箇所の近くから起きるとは限りません。最初の井戸枯れの苦情は、工事場所から100メートルも離れていました。 地下の水道(みずみち)の関係でしょうか?  

4.地下7メートルで測量中
地下で測量中、路面の270キロの覆工版が落ちてきました。覆工板は、両膝と顎をかすめて落下。あと5センチずれていたら、 私は死んでいただろう。運というか、神様のおぼしめしか?

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●5番目の現場 京王線新宿駅(東京都新宿区 S47.4〜S50.11)
1.現場に来た作業員が初日に事故で死亡

協力会社(その作業員を雇った会社)で、就労名簿に本人が書いた名前が偽名であった。警察署・監督署からは、本人確定を迫られました。 そのとき、10年前の初めての現場で、自分が偽名を名乗った時、1文字は本名を入れたことを思い出しました。

作業員宿舎で、「本人が申告した「藤」か「田」のついた名前の人を他社の宿舎で一緒にならなかったか?」と聞いたところ、「K組の宿舎で、 「藤岡」というのがいたが、それに似ている」との証言を得て、k組に行き名簿を見せてもらい、その住所に連絡をとると、 はたして本人であることが判明しました。ということで、10年前の自分の経験が本人確認に役立ったということ。

2.ガードレール下の酔っ払い 夜間作業前、夕方の現場点検で、酔っ払いがガードレールの下にいたので、警察に来てもらいました。車道は新宿署、 歩道は原宿署の担当だったが、二人の警官の年配者は、「こういう場合は、体の投影面積の多いほうの担当かなあ、 それとも心臓のあるほうの担当かなあ」と考えていました。正解はどちらか、確認していません(笑)。

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●6現場目 共同溝工事 (東京都練馬区 S50.12〜S52.3)
1.やくざの準構成員?登場
現場の地元へのあいさつ回りをして、1軒のお宅の勝手口のドアを開けると、色のついたヒヨコや栗を煎る大型の中華鍋などがありました。 香具師(ヤシ、お祭りの出店を商売にしている。一般に○○組などに所属している)の家でした。親分がいれば丁重にと……思っていましたが、 奥様が出てきて、工事の挨拶と説明などをしました。非常にあたりの良い方でした。

聴講生の皆さん 現場事務所ができた2月中旬頃、外に出ていると1人の小柄な男性が近寄ってきました。 「所長さんかい?」「そうです。望月といいます。いろいろご迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いいたします」 「俺は、K(香具師の親分)から任されているんだ。ここで工事をやるんだから、しかるべきことをしてもらうよ」「どういうことですか?」 「夜間工事で、皆に迷惑をかけるんだから、何をすればよいかわかるだろ!」

第1日はこれで別れ、本社と発注者の建設省監督員に報告しました。その後、数回の交渉で、自分のお金を出すつもりで、要求額を30万まで下げました。 その後、彼の奥さんと頻繁に挨拶するようになり、小学生の子供さんふたりに3月末にノートや鉛筆などの学用品を贈りました。すると、 本人からもお礼がありました。その後、何もいわれなくなり、時々、一緒に池袋へ飲みに行くようになりました。

2.親分が出獄
彼からの連絡で、まもなく親分が出獄するとの情報を得ました。本社に連絡すると、とんでもない人だということがわかった。 前科14犯、短銃で殺人1件。「凶暴な性格なので、一切口答えするな!」とのこと。数日後、若い衆から呼び出し。無意識のうちに、、 腕章や名札などを全部外し、財布・定期入れもすべて事務所の机の引き出しに入れて、あとについて行った。親分ほか5人に囲まれ、 いろいろいわれたが、一切反論せず、じっと耐えました。

3.放免祝い
その後、準構成員から放免祝いの招待状をもらい、池袋の放免祝いの席へ。領収書には、○○○家の印があり、会社には請求できません。 正面に堅気(かたぎ)の席があり、今日の主賓達(今日は2人)の奥さんの友人たちがいる席に着きました。

4.天気は西から時速40キロで変わる
路面の覆工板を撤去して舗装をする時、砂の埋め戻しと砕石の転圧は、雨が強く降ると膿んでぐちゃぐちゃになってしまって、 舗装ができなくなる。夜8時からの作業で、午前2時までの間に雨が降ると舗装ができません。

その日は、深夜から雨の予報だったので、九州から東海地区の当社の営業所に何時頃から雨が降り出したか電話で聞いて行ったところ、 定説どおり、雨は時速40キロで東に向かっていた。この推移なら、雨は深夜3時頃まで降らない、と確信して、夜間作業を開始しました。

ところが、12時半頃から雷が鳴り出し、1時過ぎに雨が降り出しました。当日は、作業が順調で、その頃は砕石の転圧が始まっており、 なんとか膿まないで舗装を終えることができました。時速40キロで東へ移動するのは正しかったが、雷雨は北関東から降りてくることに失念していて、 もし間違えば、やり直しをするところだった。

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●土木東京支店、土木部長として
東京湾横断道路の川崎シールド・木更津人工島などを担当しました。

1.東京湾横断道路の経過
明治44年、港湾調査会「東京湾の運河開削計画」立案。
大正13年、港湾調査会「京浜運河計画」。
昭和15年、内務省土木会議「東京湾臨海工業地帯造成計画」。戦時体制で棚上げ状態に。
昭和33年、住宅公団相殺、東京港から富津まで湾内の三分の二を埋め立てる構想。
昭和34年、産業計画会議「NEO-TOKYO-PLAN」構想。環状道路と湾央・湾口を道路と鉄道で結ぶ構想。
昭和36年6月、産業計画会議「東京湾横断堤」構想。川崎側1kmをトンネル、木更津側1kmを橋梁、中央の10kmを堤防にする。

以上のような構想が発表されるなか、建設省は、昭和36年2月、木更津市を拠点とする大規模臨工業地帯の造成を構想し、 その中に神奈川・千葉を橋梁またはトンネルで直結する道路交通網の建設が盛り込まれました。

昭和41年度から東京湾横断道路の調査を開始。
昭和50年8月、技術的に建設可能との結論に達した。
日本道路公団の検討により、トンネルは、沈理トンネルの検討とともに、技術的進歩が著しいシールドトンネルの可能性についての検討を開始。
昭和60年6月、川崎側トンネル部について、シールド技術の進歩で、工事環境面でも有利で、 船舶航行の安全のためにも良いシールドトンネル案に変更することに。

2.着工まで
環境アセスメント
漁業補償交渉 東京都・神奈川県・千葉県
本体工事発注
起工式 平成元年5月
起工式途中のにわか雨。テントの雨漏りは、氷柱の移動によって対応。祝賀会の最中でなくてよかった!

パワーポイントによる解説 シールドの歴史、東京湾横断道路
シールド部の施工中の荷重不足に対応するため、施工中はインゴット等を置いて作業しました。 セグメント接合方法 一般的に各社任意の接合方法を採用するが、横断道路では全工区統一の接合方法を採用しました。

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講座企画・運営:吉田源司
テキスト製作:望月將地
会場写真撮影:飯嶋重章
HTML制作:上野治子

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