ページの先頭です
現在位置: ホーム(1)講義録一覧(2) >中国 三大悪女

WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

ページの先頭です


2013年10月11日神田雑学大学 定例講座No667

中国 三大悪女

講師 塩崎哲也



ピンアイコン
メニュー
      
 講師紹介
 A 権力を握ったのが「女性」だったから
 B 呂后
 C 武則天
  D 西太后
  E 誰が一番の悪女か

講師紹介(吉田源司統括理事)
塩崎講師  今回は、中国通の塩崎講師による、中国の虚と実について語っていただく
シリーズの第3回めです。前回は「三国志の虚像と実像2 ハイライトシーンの虚構」として、ホームページに抄録を公開しております。
http://www.kanda-zatsugaku.com/130614/130614.html
『中国・日本・韓国の儒教国では、女性が社会に出て活躍することを忌避する思想があります。「雌鳥時を告げれば家傾く」、「生まれては親に従い」などといって、嫁しては夫に従い、老いては子に従う「三従」が美徳とされてきました。中国三大悪女といわれる「呂后」「則天武后」「西太后」は、まさにそうした教えの被害者といえましょう』このように塩崎講師は述べておられます。ほんとうに彼女たちは、
悪女だったのか否か? では、よろしくお願いいたします。

A 権力を握ったのが「女性」だったから。
中国はじめ、日本、韓国は儒教の影響で基本的に「男尊女卑」の国である。女性が表に出て活躍するのは忌避される傾向にあり、まして女性が「国家権力」を握った場合、その当時の政治的関係者だけでなく、後世の歴史家からも悪くいわれるのが普通である。「雌鳥時を告げれば家傾く」という言い回しがあり、「三従(生まれては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う)」が美徳とされた国々なのである

1.悪女は西洋にもいた 権力を手中にするために、あらゆる手段を使かった女性権力者は世界には多くいるが、世界史では、今回の中国の3女性ほどは酷評されていない。<br>

西洋で悪女(?)の例を2,3挙げると、
アグリッピナの写真
・アグリッピナ
彼女は息子を皇帝にするためなら、どんな卑劣無惨な行為も辞さなかった。彼女は、息子ネロを連れ、30歳年上のクラウディウス皇帝に嫁いだ。クラウディウスはその時60歳。愛情からの結婚でないことは間違いない。夫が老衰死するのを待てず、毒茸を食わせて毒殺を図った。それが失敗するや、医師に言い含めて、毒を塗った羽根箒を喉に押し込み、殺した。
エリザベス一世の写真
・エリザベス一世 
政敵メリー・スチュアートを女性特有の陰湿さでいたぶり、
最後は獄死させた。


・エカテリーナ二世
エカテリーナ二世夫ピョートル三世を殺して皇帝になった。ただし、彼女は主義主張を持って内政に当たった。ヨーロッパ先進地域に学ぶ開明化の方針である。ヴォルテールやディドロなどの文化人と親しく文通し、ロシアにアカデミーを設立し、劇場を作り、人民を啓蒙しようとした。


2 中国三大悪女

中国三大悪女とは、漢代の呂后、唐代の則天武后、清代の西太后のことである。彼女らが悪女であるとのイメージを定着させた共通の行為は「ライバルの四肢を切断し、生きながら甕詰め」にしたことである。

戚氏殺害の写真 呂后:
息子恵帝の有力なライバルであった劉邦の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、趙王及びその生母・戚氏を殺害した。趙王如意殺害後には、戚氏の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後、便所に置いて人豚と呼ばせた、と史書にある。



蕭氏酒漬けの写真
則天武后:
監禁していた王・前皇后と、蕭・前淑妃を棍杖で百叩きにした後、
蕭氏を生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壺に投げ込んだ。


写真
西太后: ライバル麗妃の手足を切断したというエピソードは、映画「火焼円明園」に描かれているが、これは完全なフィクションで、呂后や則天武后のイメージと混同されている。


B 呂后呂后の肖像画 呂雉(りょち、〜BC180年)は、漢の高祖・劉邦の皇后。恵帝の母。
謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。

1 呂后の闘争
劉邦は多くの世継をもうけるという責務は認められるが、彼は本来、好色であった。その最たる例は、功臣の妃(後の趙妃)と通じ、劉長をもうけたことであろう。この時代、長子相続制は確定しておらず、皇太子の冊立は皇帝の胸三寸であった。これが皇太子冊立を巡る悲劇の始まりである。また、劉邦が定めた「劉氏以外王たるべからず」との不文律が劉氏・呂氏抗争の原因である。たとえば、下記系図で丸印をつけた「趙王」に注目していただきたい。劉氏3人の趙王は呂后の劉氏潰しの結果であり、順に潰され、冊封され、その後潰され、ついに呂氏に渡ったことを表している。
 呂后相関図

2 呂雉が皇后に
呂雉は単県(山東省)の有力者・呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)であった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何(後の丞相)に「進物一万銭」と、はったりの御祝書を出した。呂公は、はったりと知りつつも感心し、妻の反対を押し切って娘・呂雉を劉邦に嫁がせた。
その当時の劉邦は、地方の小役人であり、海の物とも山の物ともわからない、とにかくパッとしない人物であった。しかし、見かけは、髭をはやして威風堂々としており、いかにも豪傑そうなので人目を引く存在であった。酒宴で劉邦の姿を見た呂公は、その男っぷりに目を止めてすっかり惚れ込んでしまった。結婚後、呂雉は劉邦の父・劉太公の農業を助け、懸命に子供(一男・一女)を育てた。ちなみに呂雉の妹・呂須は樊?に嫁いだ。
秦末の動乱期および楚漢戦争開始直後は、沛県で舅の劉太公や子供たちとともに夫の留守を守っていた。しかし、楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ、人質になってしまう。
劉盈(後の恵帝)と魯元公主は劉邦と合流し、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が馬車から落ちた子供たちを見捨てるという騒動が起こった。
楚漢戦争の当初、項羽側が優勢に進めたが、BC203年に入ると、韓信などによる楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公とともに劉邦の元に帰ることを許された。
劉邦即位の写真
BC202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。

中国全土を統一して一段落つくと、劉邦は次第に本来の性分を発揮し始めた。つまり、酒好きで、女に目のない性格が頭をもたげて来たのである。劉邦は大掛かりな酒宴をたびたび開き、大勢の妾を囲い始めた。その多くの愛人の中に側室の戚妃(せき)もいた。戚妃は若く、大変な美人であった。その上、野心家であった戚妃は、劉邦との間に子供(劉如意)が生まれると、次期後継者にすべくいろいろと手を回し始めた。
四面楚歌のTV画面
劉邦には、皇后となった呂后との間に、すでに孝恵(幼名劉盈)という皇太子がいたが、劉邦は物静かで軟弱な性格の孝恵を嫌うようになっていた。劉邦はあまりにも繊細すぎる少年・孝恵を皇帝に相応しくないと思い始めていた。

そうした劉邦の心を見透かして、戚妃はわが子・如意を漢の次期後継者とすべく、劉邦にいろいろと話を持ちかけ、連日のように熱心にくどいていたのである。
戚妃、呂后 女の戦いのTV画面
こうした戚妃の行動を、呂后は知っていたが、劉邦の手前、表だった行動もできず、我慢に我慢を重ねていた。表面上は、つとめて冷静に振る舞ってはいたが、心の底では、はらわたが煮えくり返っていた。

皇太子を入れ替えるという問題は、重臣たちの猛烈な反対に合って、劉邦も思いとどまざるを得なかった。この時、呂后も内心ほっと胸をなで下ろしたに違いない。だが、いつかこの仕返しはしてやるぞという憎悪の気持ちだけは強烈に心の中に刻み込まれた。

3 功臣の粛清韓信反逆のTV画面
BC202年、燕王臧荼(ぞうと)が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。

劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、漢王室の今後にとって最も危険な存在であった。彭越・英布を粛清のTV画面
「韓信が反乱を企んでいる」との報告があり、閣内で韓信の討伐について議論した。その際、陳平は「軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険である、だまして捕らえる」ことを提案。劉邦はこれを受け入れ、巡幸に出るから韓信も来るようにといいつけ、韓信がやって来た所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。

翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦は親征してこれを下した。
彭越反逆のTV画面
同年、彭越は捕らえられて蜀に流されるが、途中で誅殺される。一人残った英布も反乱を起こした。劉邦はこの時、体調が良くなく、太子・劉盈を代理の将にしようとしたが、呂后に諫められ、親征して英布を下した。

4 劉邦の死
英布戦で受けた矢傷がもとで病状が悪化し、翌BC195年、呂后に今後誰を丞相とするべきかなどの人事策を言い残して死去した。劉邦崩御のTV写真

呂后に、「あとは蕭何(丞相)に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」といい、「その次は?」と問う呂后に「次は王陵が良いが、愚直すぎるので陳平を補佐とせよ。しかい、陳平は頭が切れすぎるから、すべてを任せるのは危ない。社稷を安んじる者は周勃である」と遺言した。なおも「その次は?」と問う呂后に「おまえは、いつまで生き
るつもりだ。そのあとは、おまえにはもう関係ない」といった。

5 呂太后の残虐恵帝即位のTV写真
皇太子の孝恵が即位し、呂后は皇太后として事実上政権を握った。呂后政権の始まりである。当時の中国社会では、母子関係は絶対であり、いくら皇帝であろうとも、おいそれと自分の母親には口出しできなかった。こうした時代背景を武器に、呂后は実権を握ると、専制政治を開始した。つまり一族をことごとく高官に配置し、要職をすべて牛耳って、宮中を思いどおりに動かし始めたのである。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く、恵帝即位後まもなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王・劉肥、趙王・劉如意の殺害を計画するが、斉王暗殺は恵帝によって失敗する。
恵帝、如意を庇うTVシーン如意毒殺のTVシーン

威妃・人豚のTVシーン趙王とその生母・戚夫人を殺害した。この時、呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王・如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後、便所に置いて人豚と呼ばせた、と史書にはある。



威妃人豚漢代のトイレ
なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる。

恵帝に人豚を見せる 6 恵帝の死
自分の母親である呂雉の悪行にショックを受けた恵 帝は政務を放棄し酒に溺れ、23歳の若さで死去して しまう。実に恐ろしきは女の怨みかな。


7 呂皇太后の専横
陳平は、呂皇太后に実家の呂氏一族を重役に立てることを進言、呂皇太后はその遺児・少帝恭を立て、呂氏一族や陳平、周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図る。しかし、この頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど、呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝恭を殺害して少帝弘を立てるなどの行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちから反発を買うようになる。また、元勲たちも自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。呂皇太后自身、このことには気付いていたようで、甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるように言い聞かせ、さらに、呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去した。呂皇太后は、漢陽郊外(現西安市)の高祖の陵墓・長陵に合葬された
呂皇太后の死劉邦・呂后の陵墓

8 クーデター張良の遺言
呂皇太皇の死後まもなく、陳平や周勃らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにしたうえで、恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。これが文帝である。

文帝擁立の前後には少帝弘も、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、恵帝の子とされていた常山王劉朝、周勃クーデターの決意淮陽王劉武らとともに暗殺された。
また、呂后の妹の呂須は鞭打ちの刑で殺害され、呂須の息子の樊伉も殺害された。呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、魯元公主が生んだ張敖の子供である張皇后と張偃兄弟のみであった(公主は母の呂后に先だって死去)。


9 評価
呂皇太后の時代は、皇族や元勲が殺害されるなど、何かと血腥い事件の続いた時代であり、呂氏一族も呂皇太后の死後誅殺された。司馬遷は史記において、呂皇太后を始皇帝・項羽・劉邦らと同列に扱い、呂太后本紀として立てているし、『漢書』でも同じく高后紀を立てている。

呂皇太后の政治は8年間も続いた。かくも横暴をきわめた呂皇太后の政治であったが、史記によると、世の中は至って平和で、人民の暮らし向きはいいほうであったという。それは、呂皇太后の関心は宮中内部にとどまり、対外遠征や大規模な工事などには興味がなく、民衆に重税を課したり、過酷な労働を強制したりすることがなかったということであろう。

呂皇太后の考えは、呂一族に対抗するような勢力を潰し、呂一族の漢にすることだった。そのため、他氏族を潰してまわったのだが、これが奇妙な形で漢に幸いした。呂皇太后の死後、陳平らの尽力で呂一族は滅亡したのだが、たったひとつ残った有力氏族がなくなったことで、漢の王室の独裁体制が整ったのである。漢の武帝の輝かしい偉業は、この独裁体制の整備なくしては語れない。


C 武則天
武則天の肖像武則天は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、のちに唐に代わり武周朝を建てた。諱は照。日本では「則天武后」と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方、中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的である。在位期間690〜705年。ここでは中国呼称を尊重し、以下武則天とする

1 闘争
唐朝系図


武后の戦いの第1弾は、彼女が先皇・太宗の寵愛を受けたことで、先皇の崩御の後は、寵妃は総て尼になり、先皇の一生菩提を弔うのがしきたりであった。当初、武昭はそれに従い尼寺・感業寺で尼となった。その後、先皇の後を継いだ息子・高宗に尼寺から請け出され寵妃となったが、この儒教道徳にもとる行動は皇族、重臣から猛烈な反対を受け、それに対する戦いと復讐戦である。
第2弾は高宗の死後、高宗の後を継いだ武太后の実の息子が儒教かぶれで母を痛烈に非難し、やむを得ず廃位させたが、それに替わる皇子たちは皇帝に足るべき力量を備えておらず、武太后自身、皇帝を目指すことになる。唐朝では女帝など考えられないことであり、皇族、重臣の猛反対を受ける。その反対者との熾烈な戦いであった。武則天系図

2 少女時代
武昭は、利州都督武士?と楊夫人の間の次女として生まれた。生まれてまもない頃、道士・袁天鋼が彼女の相を占い、「必ずや天に昇る」と述べたという。これを聞いた父・武士?は、乳児の武照の容姿が極めて美しかったこともあり、将来の皇后を期待し、高度な教育を与え、幼名を媚娘と命名した。
媚娘が幸せな生活を送ったのは武士?が死去する8歳までであった。父の亡き後、媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送った。少女期の媚娘は、漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、聡明な頭脳を備えていたと史書に記録されている。

3 宮廷入り14歳で太宗の後宮に唐2代皇帝太宋入り、才人(妃の地位、正五品)となった。
当初は太宗に寵愛されるが、「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」と流言があり、武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は次第に武照を疎遠にしていった。
こうした状況下で太宗に殺害されることを恐れた武照は、皇太子・李
治を籠絡、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。太宗の崩御にともない武照は出家することとなった。
武才人と皇太子・李治





太宗崩御尼寺で修業する武照蕭淑妃と皇子・素節

高宗が尼寺に通い、武照と逢引その頃の宮中では、太宗の後を継いだ高宗の皇后である王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立していた。蕭淑妃は、王皇后に子がないことに狙いを定め、自分が生んだ皇子・素節を皇太子にし、自分が王皇后に替わろうと謀った

王皇后は、高宗がひそかに尼寺に通い、武照と逢引していることを知り、高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らすため、高宗に武照の入宮を推薦した。武照は皇子・弘を出産

武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は、王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたが、王皇后とも疎遠になった。

やがて武照は皇子・弘を出産する。これを機に武照は自身が皇后へ、弘が皇太子にとの野望を抱き、王皇后、蕭淑妃の排斥をもくろむ。
王皇后


4 立后
武照のでっち上げた「陰謀下毒」事件で高宗は、王皇后と蕭淑妃を投獄した。彼女らの父母兄弟なども官位を剥奪し嶺南に流す、という詔書を発布することに成功した。
永徽6年(655年)高宗は王皇后を廃し、武照を皇后に立てる事を重臣に下問した。皇宗と武皇后
この時の朝廷の重鎮は、王皇后の兄・長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた?遂良、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の四人である。長孫無忌と?遂良は反対し、于志寧は賛成も反対もいわず、李勣はこの会議には欠席していた。その後、高宗が直々に李勣に下問したところ、「これは陛下の家庭の事です。なぜ臣下に聞くのですか?」と答え、皇后の廃立に力を与えた。

高宗は詔書を発布して武照を立后するとともに、諫言した?遂良を潭州都督へ左遷した。


5 蕭淑妃の甕詰め蕭淑妃の甕詰め
皇后になった武照は、監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした。王氏はその場で死んだが、蕭氏は死ななかったため、四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と酒壺に投げ込ませた。蕭氏は、酒壺の中で数日間泣き叫んだのち絶命した。さらに、遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」(ウワバミ)と「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされる)に改称させた。
蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になり、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやると呪いながら死んだといわれ、後年の武則天は、宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。

6 垂簾政治
高宗は、政治にまったく関心を示さず、武皇后は高宗に代わり垂簾政治を行った。武皇后が真っ先に手掛けたのは、今までの伝統的貴族、すなわち唐建国の功臣や、名門家柄出身の貴族たちを政治の座からの追放であった。武皇后は、それだけで終わらず、完全な実権を握るのを目指した。たとえば、高宗の母の兄・長孫無己は、武照が皇后になるのを反対したため、流罪の上に謀反の罪に落とされ、殺された。
武皇后の垂簾政治長孫無己配流途中で自殺詔勅の強要

唐は隋と同じく基本的に貴族政治であり、関ろう貴族集団(注)と呼ばれる貴族層が権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃、科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用と国政運営には限界があった。武皇后は、今後も貴族の積極的支持がないと理解していたため、権力を維持するべく新しい出身層の人材を積極的に登用した。登用された人材としては狄仁傑・姚崇・宋ケイなどがいる。これらは非貴族身分の出身であり、貴族制下では出世が見込めない人物だった。武皇后は、ただたんに低い身分に主眼を置いたのではなく、その登用には才能と武皇后への忠誠を重視している。環境依存文字
姚崇と宋ケイは後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた 出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。


7 高宗の死と中宗の即位中宗・皇后韋氏有頂天に
弘道元年(683年)、高宗が崩御すると子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位しその弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。

睿宗は武后の権勢のもと、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。武則天の専横に対して皇族が次々と挙兵したが、いずれも打ち破られた。民衆は暮らしに困窮し、浮戸や逃戸もあったが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍中宗追放に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。


8 登位
宗族の挙兵を打ち破った後、武后は、女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った。

武則天即位 国号・周
天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」として、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ。


9 密告制度と酷吏
武則天の悪のイメージは、蕭氏を甕詰めというおぞましい方法で殺害したことのほか、密告を奨励し、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行なったことによる。
密告箱酷吏・来

10 晩年
則武天は、皇太后の時代から、白馬寺の僧・薛懐義を、誰憚ることなく閨房に侍らせていた。さらに晩年には、張易之・張昌宗の若い兄弟を寵愛し、政治は大いに乱れた。張兄弟は、武則天の寵愛を傘に横暴を極め、李一族であろうと、武一族であろうと、王・侯族も張兄弟には逆らうことができず、諫言したことで殺された者さえ出た。
白馬寺の僧・薛懐義夜な夜な張兄弟と
10 クーデター
武則天は、病に臥せがちとなった。この状況に唐復活の機運は高まり、80歳の宰相・張柬之が立ち上がった。張柬之は慎重に足元を固めたうえで、705年の正月、張兄弟を斬り、病床に伏せっている武則天を退位させ、皇太子に復帰していた中宗が復位した。

武氏の眷属は李氏を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築していたため、唐朝再興に伴う粛清は、太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。皇帝の母である太后でもあるため、中宗は退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈り、その後まもなく武照は死去した。享年83。
聖神皇帝の家系図張柬之
張柬之ノクーデター


これで血なまぐさい宮中の争いは終わったわけではない。中宗の皇后である韋后が、「今度こそ、第2の武則天になってやる!」と、娘と共謀して夫の中宗を毒殺してしまう。これが韋后の命取りとなり、以唐玄宗前から対立していた睿宗の息子、李隆基(28歳)が兵士を率いて韋后らを殺害する。

そして李隆基が即位。第6代皇帝玄宗(在位712〜756年)である。
彼は武則天の時に採用された有能な新官僚に支えられ、唐の最盛期をもたらす。これが「開元の治」である。


11 武則天の墓碑
乾陵706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。乾陵の地下宮殿には貴重な文物が当時のまま残っていると期待されているが、発掘の予定はない。

中宗は、退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈っているが、武照は皇帝の文字を削り「則天大聖皇后」
とするよう中宗に遺言している。また、乾陵に則天皇后の墓碑があるが、碑面には文字がない。一説によると、評価を後世の人に委ねよとの則天皇后の遺言によるものという。
遺言⇒則天武后則天武の無文碑
12 則天文字
武則天は、漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日、使用されることはほとんどないが、「圀」の字は、日本では徳川光圀と本圀寺の名称に使用されている。この改変は、「國」が国構えの内に「惑」を含むことを忌み嫌ったもので、その代替として国構えの内に「八方」をそえたものである。ほかにも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「?」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものであった。
則天文字則天文字則天文字

13 奉先寺大仏
奉先寺大仏帝室が、老子の末裔だとされ、「道先仏後(道教上位で仏教が下位の意)」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行ったほか、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記した『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。これがのちの日本の国分寺制度の元になった。


洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。


D 西太后西太后
西太后(1835年〜1908年)は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身といい伝えられている。慈禧太后。幼名は蘭児。

紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后皇后(慈安皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后)と区別して呼ばれた。


1 西太后の闘争
清朝末期の系図右図で、黄色は後世に西太后が殺害したといわれる人物。皇帝の枠の下の数字は在位期間を示す。

光緒帝は27歳までその地位にいたが、その後の10年間は西太后によって幽閉されていたので、実質の在位は27歳までである。

俗説では4人を殺害したと言われている。光緒帝だけは疑いは残っているが、あとの3人はまったくのフィクションである。

西太后が悪とされるとことは、皇帝人事を私し、判断能力のない幼児を皇帝にしたことであろう。そのうえ、垂簾聴政を行うが、彼女自身激変する国内外の情勢を把握できず、清朝を滅亡に至らしめたことであろう。

逆に彼女の不幸は、歴代の皇帝は皆早世し、世継が得られなかったこと。また、彼女を支えるべき官僚組織が完全に腐敗していたことである。世継としての選択肢が多すぎ、混乱・不幸を招いた呂后、武則天との違うところである。


2 出自
西太后は、1835年、山西省長治市の満州族の貧しい下級官吏の娘として生まれたといわれているが、近年では、漢民族の貧しい農家の生まれで、4歳の時に他の漢民族の家に売られたのち、その家もおちぶれて、再び12歳の時、別の下級官吏(養父・恵征)の家に売られてきたといわれている。その家では、西太后 の美しさが際立っていたので、彼女を養子とし、その後、宮廷に出仕させた。

従来、西太后は纏足をしていないので、漢民族ではなく、満州族の出身だと考えられていた。しかし、実際は漢民族の出身ではあるが、生まれた家は纏足もできないほど下層だったということが真相であろう。
纏足した足纏足した婦人の靴

額彼女は、満州文字は理解できなかったことも、漢族であるとの根拠となっている。






3 皇子出産と出世
咸豊帝の肖像画1852年、17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験
「選秀女」を受けて合格。翌年6月、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。宮廷に入って3年で「貴人」から「嬪」になった。かなり早期に「咸豊帝」の目にとまったのであろう。徽号も「蘭」から「懿」に変え、懿嬪に進んだ。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。



4 清代の後宮制度は
清朝後宮制度清朝の後宮制度は、右図のように
トップの皇后から常在の8段階で、その下に下働きの宮女という構造である。

清代では「秀女」は、3年ごとに選ばれる。これを「選秀女」という。八旗(清朝の戸籍制度)ごとに名簿に記載された妙齢の女性たちに対して、宮中で「初選」(主に器量や姿態による一次選抜)、「複選」(器量と手芸による二次選抜)が行われ、見事に合格すると、下級妃嬪(貴人・答応・常在)として宮中に採用された。宮女
これとは別に、五旗の漢族女性を対象に内務府による秀女選抜も毎年行われ、合格者は「宮女」(妃嬪に仕える女性)として宮中に入った。「宮女」や「秀女」は、どちらも宮廷内の女官になるが、格が違う。仮に、皇帝の「お手」がついた場合、どちらも妃嬪(側室)として扱われるが、宮女は「常在」からスタートするのに対して、秀女はいきなり中級妃嬪である「貴人」となる。
また、宮女は「25歳」までに皇帝のお手がつかなければ、実家に帰ることができる。しかし、秀女は生涯を宮廷で過ごさなければならない。
宮女の出迎え皇后を選ぶ時は、しかるべき家柄の娘を数人候補として選ぶが、皇后になれなかった者は貴級妃嬪の「妃」以上として遇される。ちなみに「皇貴妃」とは、皇后がなくなった場合に皇后となるべく選ばれた者である。
一例として、「西大后」は、「秀女」として宮廷に入って3年で「貴人」から「嬪」になった。その後、1856年に皇子「戴惇」を生んで「妃」となり、翌年には「貴妃」になっている。

承徳避暑山荘
5 政権掌握
アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は、1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と、咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らと激しく争った。

不明懿貴妃は、王皇后と咸豊帝の弟・恭親王を味方に引き入れ、咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上、クーデターを起こし、載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変、1861年)し権力を掌握した。

北京帰還後、載淳は、同治帝として即位し、王皇后は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。同治帝の肖像画

当初は、東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。



東太后の肖像画西太后の肖像画恭親王の肖像画
嘉順皇后の肖像画1874年、同治帝は、大婚を機に親政を行おうとしたが、若くして崩御した。同治帝は、成長するに従って実母に反発、遊郭に入り浸って梅毒で死亡。同治帝は「嘉順皇后の妊娠中の子を次期皇帝に」と遺言するも、妊娠中の胎児の性別がわからないうえ、嫁の皇后とそりのあわない西太后は許さず、皇后を幽閉する(その後、嘉順皇后は憤死)。

次期皇帝についたのは西太后の母方の甥にあたる載?(さいてん、光緒帝。8代道光帝第7子・醇親王奕?と西太后の妹の子)。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合、名光緒帝の肖像画前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者になれない。しかし、西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子・載?を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を続けた。






6 東太皇の死
東太后の肖像写真1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。

また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた恭親王へ責任を被せ、失脚させた。

東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶
対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、隆裕太后の肖像画3年間の「訓政」という形で政治の後見を行うことを条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。


7 日清戦争
西太后は、洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章らを登用。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した。洋務運動とはヨーロッパ近代文明の科学技術を導入することで、中国の国力増強を意図した運動あり、清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らがこの運動の推進者として知られる。しかし、洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。

洋務運動、福州造船所
北洋艦隊「鎮遠」
頤和園昆明湖
清朝の敗北は、北洋艦隊の予算不足により、艦船は整備されたものの操練が遅れていたことが主要因である。北洋艦隊の予算の不足については、1885年から始まった頤和園の再建と拡張に伴う予算に数百万両ほど流用したことや西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費をしたことが影響したといわれている。それよりも、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当したこと、海軍費を広東水師(海軍)の増強の方に充てたことなどから北洋艦隊の整備・増強を後回しにしためである。


8 変法自強運動と戊戌の政変
日清戦争の敗北後、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した変法派の康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。
光緒帝康有為の肖像画
しかし、急速かつ急進的な改革に対して、親貴や軍機大臣を含めた守旧派高官との間で深刻な対立が生じた。守旧派は、西太后の再々度の訓政を願い、両派がクーデターを計画するなど、一発触発の事態となった。

伊藤博文、光緒帝に謁見この時期、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。変法派リーダーの康有為は伊藤博文を清の顧問にと計画した。伊藤は「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案。それを受け変法派官吏・楊深秀らは光緒皇帝へ上奏した。上奏の内容は「中、日、米および英と連合し“合邦”すること。時代の情勢をよく知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する」というもので、あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限に外国人を参画させる内容であった。西太后は紫禁城へ戻り、この報告を受けると激怒した。

袁世凱の肖像画光緒帝側は、改革に好意的な袁世凱を抜擢し、西太后のいる頤和園を包囲するクーデター計画を立てたが、袁世凱の変心で計画が西太后側に露見してしまう。西太后は宮中に乗り込み無血クーデターにより政権を掌握し、変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した。


9 義和団の乱
義和団の乱の写真1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。義和団は、勢力が拡大するにつれ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになる。ついには、ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初義和団を優勢と見た西太后は、義和団支持派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝が寵愛していた珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じたという。


10 西太后の悪評の多くは俗説
1)皇后になれなかった理由
いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。葉赫那拉は、ヌルハチに激しく抵抗した末に併合されたエホナラ部族の最後の首長・金臺吉(ギンタイジ)は、臨終に際して、ヌルハチに対して「清朝の一族にたとえ女一人でも葉赫那拉の人間が加われば、そのものがおまえの一族を滅ぼすであろう」と呪いの言葉を遺して死んだ。

清朝はこの呪いを言い伝えて、決して葉赫那拉氏の女を后妃にしないという掟が守られ続けた。ところが、清末の咸豊帝が掟を破って葉赫那拉氏の女を妃にした。はたして葉赫那拉氏は咸豊帝の死後に西太后となって権力をほしいままにし、ついに清を滅ぼしてしまったという俗説である。 これについては、この章の冒頭の出自のところで述べたように、西太后は、葉赫那拉族ではなく、漢族なのである。

2)光緒帝毒殺
光緒帝は、西太后が亡くなる前日に急死しており、当時から西太后によって毒殺されたとの流説があった。これを確かめるために、中国当局は2003〜2008年にかけて、陵墓から光緒帝の遺体を法医学者によって科学分析を実施した。その結果、頭髪から経口致死量を上回る残留砒素が検出され、国家清史委員会は光緒帝が毒殺されたと結論づけている。
光緒帝宗陵の写真光緒帝棺の写真

誰が光緒帝を殺害したかについては、さまざまな議論があるが、どれも決定的な証拠は無く不明のままである。西太后殺害説、袁世凱殺害説、李蓮英殺害説、崔玉貴殺害説などがある。西太后犯人説をとる『崇陵伝信録』では、死期が近づいた西太后が光緒帝が自分よりも長生きしないように毒殺したとしている。しかし、西太后は74歳という齢で、永らく病床にあり、この時、彼女は死の前日で重篤の状況にあった。このような状態の彼女が清の将来を心配するほどであったとは考えがたい。
光緒帝が幽閉された玉蘭堂光緒帝砒素中毒死

3)かってのライバル・麗妃の手足を切断して甕の中で飼った
麗妃甕詰上に挙げた例は根拠のない流説であると判明している(加藤徹『西太后』参照)。ライバルの麗妃の手足を切断したというエピソードは、映画「火焼円明園」(邦題「西太后」)でも描かれているが、これは完全なフィクションである。

西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは、危害を加えられることなく後宮で生活している。麗妃は、咸豊帝の唯一の娘・栄安固倫公主を生んだのち、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒の両帝から麗皇貴妃、麗皇貴太妃にと加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお、栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘ではあるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。

4)珍妃身投事件
光緒帝と珍妃西太后のイメージを悪くしているもう一つの逸話は、列強8ヶ国連合軍が北京に迫り、彼女が紫禁城から脱出した際に、光緒帝側室・珍妃を井戸に突き落として殺したという話であろう。

この事件の経緯は、西太后は、まず珍妃に対して、光緒帝とともに西方へ逃げるのか、敢えて紫禁城に止まるのかとの問いに、珍妃が北京から逃げ出すことを潔しとしなかった。これが西太后の逆鱗に触れ珍妃が投げ込まれたという井戸、死を命じられたというのが話である。

珍妃が投げ込まれたという井戸は紫禁城内に残っているが、その口は狭く、とても大人が入るとは考えられない口である。珍妃自ら飛込み自殺するのは無理である。誰かに意識的に頭からグイグイと押し込まれなければ無理である。

彼女の遺体は、その後、北京に入城した日本軍兵士によって引き上げられ埋葬されたという。彼女の墓は清の歴代皇室の陵墓である西陵にあり、日本軍が清皇室の側室を、そこに葬り、陵墓を築くはずはない。

珍妃の死は1900年で、西太后の崩御は1908年であり、辛亥革命で清王朝が倒れるのは2011年であるから、中華民国建国後に珍妃の墓がつくられたとも考え難く、結局、西太后の生存中に葬られたと考えるのが筋であろう。
珍妃墓 珍妃墓説明板
11 西太后は写真好きであった
西太后は、写真に撮られることを特に好んだという。彼女を中心に、外国公使の夫人を左右に侍らせて撮った写真が残っている。
西太后の写真1西太后の写真2西太后の写真3

西太后の写真4西太后の写真5


12 西太后の外国観(徳齢の記録より)
「私には、外国人もシナ人と同じくらいお金持ちだとは、とても信じられません。外国人たちが宝石をあまり付けていないのに気がついています。私は世界じゅうのどの君主よりもたくさん宝石を持っているということですが、そのうえ絶えずふやしているのですから」。西太后は、中国が全世界でもっとも富裕であり、中国人はもっとも金持ちであると生涯信じていた。この視野の狭さは外交における失敗をもたらしたことは確実だろう。ただ同時に西太后は、欧米人が中国人を野蛮人と呼んでいることもよく知っていた。

「あの外国の婦人たちが大きな足をしているのは、どうしたわけなのですか? あの人たちの靴といったら舟みたいですし、おかしな歩き方ときたら、私には褒められませんよ。私はまだ外国人できれいな手をしている人をひとりも見たことがありません。肌は白いけれど、顔は白い毛でいっぱいじゃありませんか。あなたはその人たちが美しいと思いますか?」
これは、頤和園における園遊会で、コンガー米公使夫人、デカルセルスペイン公使夫人、内田康哉公使夫人などを引見したあとの記録である。


13 西太后の陵墓
西太后の陵墓1908年、西太后は74歳で崩御した。西太后は、北京の東にある陸墓に葬られた。そこは、清王朝歴代の皇帝が眠る陸墓である。ところが、20年ほどたった頃、中華民国兵士による墓荒らし事件が起きた。

北京郊外に駐屯していた国民革命軍12軍に所属する部隊が、副葬品として埋められていた金銀財宝に目をつけたのである。たしかにそれは、莫大な財宝だったようだ。なにしろ、すべてを運ぶのに数十台の馬車が必要であった。その内訳は、金銀の仏像百体以上、大粒の真珠1万2千粒、4千の真珠を縫い込んだ掛布団の他、大量の翡翠、宝石の山だった。その際、西太后にとって忌わしい記録が付け加えられることになった。 
西太后陵墓地下宮殿
西太后の墓の一部を爆破した兵士らは、手にツルハシや懐中電灯を持って地下の墓室に侵入した。西太后の木棺をたたき壊してこじ開けた兵士らは、遺体を棺の外に引きずり出した。西太后の遺体は、まだ弾力が残されておりまるで眠るようであったという。

兵士らは、西太后の口を銃剣でこじ開けると、まず、口の中に詰められている含み珠を取り出した。さらに、彼らは、遺体から服、下着、靴に至るまですべて剥ぎ取って裸にすると、身につけている宝石がないか隅々まで捜し回った。それが済むと、屍姦を試みた者すらあったというのだ。

この事件は、2か月後に発覚して全世界を駆けめぐった。清王朝の陸墓荒らしのニュースにショックを受けた清朝ラストエンペラーの溥儀は、祖先を汚した新政府(中華民国政府)に憤慨し怒りの炎を燃え上がらせた。無限の恨みを持った溥儀は、この時、復讐を誓ったという。こうして、彼は、日本の誘いを受け入れることにした。溥儀は、満州国皇帝として、日本の傀儡政権として利用される運命を自ら選択したのであった。
講演img講演img

E 誰が一番の悪女か
悪の基準をどこにおくかで、3人のうち誰が一番悪女かが違ってくる。

1 何人死なせたか? 死なせ方の残酷さを基準に
武則天の肖像画呂后の肖像画西太后の肖像画

1位武則天、2位呂后、だいぶ離れて3位西太后。武則天については、自分に敵する者、大周の建国に意義を唱えるもの総てを葬り、その数、千人近くであるといわれている。特に自分の夫・高宗に繋がる李一族、さらに自身の身内、血を分けた息子ですら容赦しなかった。その冷酷さが人々から嫌われているようだ。
呂后も粛清という点では武則天に負けてはいず、劉邦と建国の苦を共にした功臣を悉く粛清した。

その点西太后は、自身が起こしたクーデターと、後年クーデターを仕掛けようとした連中を処刑した十数名に過ぎない。悪女の根拠とされた若き日のライバル・麗妃の甕漬け、光緒帝の毒殺、光緒帝の妃・珍妃の井戸への投げ込みなどは、すべてフィクションである。


2 「人民を苦しめた」「国を滅ぼす遠因をつくった」などの政治的失敗を基準に
西太后の肖像画spacer呂后の肖像画武則天の肖像画

1位西太后、だいぶ離れて2位呂后、3位武則天。西太后は、頤和園の修復のために軍事予算を流用し、そのため、弱小国日本に敗れたともいわれているが、それはともかく、清朝末期の官僚の腐敗が太平天国の乱をまねき、日本との敗戦、欧米列強の領土割譲要求など、国家の危機的状況になんら対応策を講じなかったばかりか、義和団に肩入れするなど醜態を演じ、清王朝の滅亡を招いた。

呂后は、漢王朝の統治に邪魔になる諸侯(建国の功臣)や、その後呂家の専横のために劉一族を殺害したのであって、行為自体は非難されることではあるが、治世自体は秦末期の戦乱に較べれば安定しており、民衆自体の消極敵ながら支持を得ていた。

武則天は、建国の功臣、貴族による統治体制を破壊し、科挙の再開・発展、在野の人材の発掘を積極的に行ない、庶民の人気も高かった。玄宗皇帝時代前半の「開元の治」は武則天が登用した人材によるものである。

玄宗皇帝が登用した人物が安史の乱を起こしたこと、また、外交で朝鮮を平定したことなどを考えると、武則天は、一級の政治家であったといえるであろう。要は、周囲の男たちが凡庸で情けなかったことが原因なのである。

メニューに戻る(M

 講座・企画運営  吉田源司
 テキスト製作  塩崎哲也
 会場写真撮影  飯嶋重章
 HTML制作  飯嶋重章

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧(2) >中国 三大悪女