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2014年1月31日 NPO法人神田雑学大学定例講座NO682

八重の桜
川崎尚之助にまつわる四方山話

あさくらゆう氏の本「川崎尚之助と八重」


講師 川崎 修(出石藩川崎家子孫)



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画鋲
講師プロフィール
●講師紹介(吉田源司 NPO法人神田雑学大学 統括理事)
1.川崎尚之助について
2.川崎尚之助にまつわる出来事、不思議な因縁
結び



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講師プロフィール
1949年兵庫県香美町生まれ。東芝電機サービス(株)勤務、東芝総合人材開発(株)講師(専門:CS向上)。東京兵庫県人会常任幹事(総会交流会企画委員長)、兵庫県香美町観光大使、特定非営利法人ふるさとテレビ顧問、(株)知道出版顧問。

●講師紹介(吉田源司 NPO法人神田雑学大学 統括理事)
川崎尚之助は、大河ドラマ「八重の桜」で一躍脚光を浴びました。その川崎尚之助が、先祖の一族だったことがわかった川崎修さんは、平成24年4月から今日まで、多くの興味深い出来事を体験しました。きょうは、不思議な因縁について、たくさんの写真の映写によってお話していただきます。NP法人神田雑学大学が2013年8月1日に開催した定例講座「八重の桜 よみがえる川崎尚之助」もあわせてご参照ください。
http://www.kanda-zatsugaku.com/130802/130802.html

八重の桜・川崎尚之助にまつわる四方山話、

川崎尚之助似顔絵と八重の桜のポスター

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1.川崎尚之助について
(1)生誕地但馬國出石(いずし)

尚之助は、幕末の天保7年、西暦1836年、今から178年前、但馬の國出石藩、現在の兵庫県豊岡市で、出石藩川崎才兵衛の子として生まれております。この時代は江戸時代の三大飢饉の一つ、天保の大飢饉がありました。大阪では、大塩平八郎の乱が起きております。出石藩では、千石騒動というお家騒動があった時です。

出石は、現在の兵庫県豊岡市の山間にあるしっとりとした城下町で、現在は観光地として賑わっています。出石は、出石焼きとユニークな皿そばで有名な出石蕎麦の町でしたが、昨年は、「八重の桜・川崎尚之助の生誕地」というキャッチフレーズも追加されました。出石は、京の都にも比較的近く、その昔は応仁の乱で有名な山名宗全が本拠地としたところでもあります。
  出石城址から臨む出石城下、皿そばと川崎尚之助の出石

(2)出石藩川崎家
江戸時代の1706年、信州上田藩の仙石政明が国替えで出石にやってきました。石高は5万8千石ありましたが、幕末にはお家騒動の処罰で3万石に減らされております。名物出石蕎麦は、国替えの時、信州からそば職人も連れてきたことが始まりです。川崎家は出石藩の下級武士でした。伝承では藩の経理関係の仕事をしていたようです。川崎尚之助の生まれた時代に、藩を揺るがした仙石(せんごく)騒動があり、川崎家も藩士から苗字を名乗れない足軽に降格されるなどの影響を受けております。

尚之助は出石藩士川崎才兵衛(2代目)の子になります。私と尚之助の関係図については、2013年8月1日のNPO法人神田雑学大学の定例講座「八重の桜 よみがえる川崎尚之助」をご覧ください。ちなみに私は、その2代目才兵衛から数えて6代目の子孫になります。余談ですが、川崎家は代々、刀や鉄砲など武器を持って戦う運命にあり、私の曾祖父までが出石藩士、祖父が近衛兵、父も終戦直前に満洲で陸軍に徴収されて鉄砲を持たされております。

出石の名家中易(なかやす)家が所蔵されている幕末の出石藩士住居地図があります。本物は広げると畳3枚もある大きな絵図です。川崎才兵衛の家は町屋にありましたが、出石は明治9年の大家で、町屋の殆どは消失してしましました。川崎家も同じです。翌年、曾祖父の渉一が家を建て直すのですが、明治25年には、生活の糧を求めて出石から香美町へ移住しました。そういう事情もあり、出石藩川崎家の遺品は、残念ながら何も残っておりません。

出石藩士住居地図、幕末の出石絵図(中易家所蔵)

明治9年(1876年)の出石大火の後、渉一が再建した川崎家 表、内部、裏庭(現在は他の人が所有この地域は景観保存地区のため、建物は現在もそのまま残されている

出石城跡、菩提寺 臨済宗頑成寺

(3)江戸での修学
尚之助は、18歳(嘉永7年(1854年)頃)の時、江戸に出て、洋学の塾で修業をします。
八重の桜では佐久間象山のアシスタントとして登場しましたが、実際は蘭学医坪井芳州の塾で学んでおりました。坪井塾の創始者で坪井芳州の義理の父である坪井信道は大変な苦学をして、医師となり、塾も開きましたが、貧しい人からはお金をもらわない、塾生の授業料もただ同然で、多くの人材が育ちました。大阪で適塾を開いた緒方洪庵もその一人です。同じ塾にいたのが、大鳥圭介、加藤弘之、平田東助、山本覚馬です。

大鳥圭介は、兵庫県の赤穂出身で幕府の幹部として会津戦争や函館の五稜郭で西軍と戦った後、許されて新政府の幹部となり、学習院の院長になるなど活躍し、男爵に叙せられた人物です。加藤弘之は、尚之助と同じ出石藩の幹部の息子で、尚之助と同級生です。後に初代東大総長になるなどの活躍をして男爵に叙せられております。

また、時期ははずれますが、大木塾には米沢藩平田東助もおりました。この人物は、のちに明治の元勲山縣有朋の側近として伯爵になる人です。そして運命の人、会津藩山本覚馬です。この人物と出会ったことが、尚之助の運命を大きく変えてしまいます。もしも出会わなければ、どうなっていたでしょうか?もしかしたら、不幸な死に方をしないで、尚之助も男爵くらいにはなって優雅な暮らしをしていたかも知れません。

(4)会津藩時代
尚之助は安政5年(1857年)、山本覚馬の誘いで会津藩に行きます。長男ではないし、仙石騒動の出石に帰ってもどうしようもなかったのでしょうね。砲術師範の山本家に下宿して、覚馬の推挙で、砲術教授に、そして大砲方頭取になります。慶応1年(1865年)、尚之助はついに会津藩士に登用され、山本八重と結婚します。

幸せな日々はこのあたりまでで、慶応4年(1868年)、会津戦争で戦いますが、ご存じのように新政府軍の圧倒的な武力の前に会津藩は降伏します。新政府軍には、後に明治陸軍元帥となる薩摩の大山巌や、その昔、百円札でおなじみの土佐の板垣退助などがおりました。降伏した会津藩士は謹慎所へと送られます。この時、尚之助と八重の今生の別れとなったとされております。

会津藩校日新館正門、会津藩校日新館砲術訓練場、砲撃で穴だらけにされた鶴ヶ城 

砲撃で穴だらけにされた鶴ヶ城 

(5)斗南時代
明治3年(1870年)会津藩は許され、新政府から斗南に土地をもらいます。尚之助は他の会津藩士たちと一緒に、謹慎地である東京から斗南へ移ります。斗南は主に現在の青森県下北半島むつ市にあたるところです。会津藩は23万石でしたが、斗南藩では3万石に減らされ、そのうえ寒冷地で米も採れません。当時のことを書いた記録では、冬は零下十何度にもなり、隙間だらけの家で、筵の布団にくるまり、半分凍った米の殆ど入っていないおかゆを食べる暮らし、まるで飢えと寒さのシベリア抑留と同じです。

このままだと飢え死にするとの危機感で、尚之助は、藩命を受けて藩士柴太一郎と函館で外国商人と米調達の取引をします。斗南でも春になると豆なら採れるので、それをかたに中国米の米と交換するという取引は成立しました。めでたしめでたしとなるところでしたが、仲間が米の手形を持ち逃げしてしまいました。それがもとで大事件に発展し、やがて尚之助たちは詐欺事件の被告として訴えられますます。藩命でしたことですが、支払い能力のない藩を守るため、尚之助は自分の裁量でやったと言い張ります。おそらく自分を藩士に取り立ててくれた藩に対する恩義もあったのでしょう。

斗南藩地図、尚之助同僚柴太一郎住居跡 

(6)終焉
外国人との裁判のため、尚之助たちは東京に移送されます。身寄りのない尚之助は、保護観察下で浅草の家を転々とします。裁判所から与えられるわずかな食事代だけで生活しておりましたが、やがて胸を患い、裁判を待っている明治8年3月20日にかつぎこまれた東京医学校の病院(現三井記念病院が建っている)で亡くなります。遺体はどこに埋葬されたか不明です。その後、病院にいた出石の関係者から知らせをうけた川崎家(渉一)が出石の菩提寺の川崎家の墓地に尚之助の墓を建立します。

取り調べを受ける尚之助(NHK)、東京医学校

(7)その後の八重について
会津降伏後、明治3年、八重は母親たちと一緒に、米沢藩内藤新一郎の家でお世話になります。内藤新一郎は尚之助の砲術の弟子で、その恩に報いたのではないかといわれております。明治4年、八重たちは、覚馬が京都で生存している知らせを受け、覚馬の下へ旅立ちます。明治8年、覚馬の下へ出入りしていた新島襄と婚約・結婚、その後覚馬と共に3人で同志社を育てていきます。明治23年、新島襄は旅先で病死しますが、八重は昭和7年(1932年)まで生きて、さまざまな活躍をします。

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2.川崎尚之助にまつわる出来事、不思議な因縁
(1)歴史研究家あさくらゆうさんとの遭遇

私にとって川崎尚之助は、歴史研究家あさくらゆうさんとの遭遇で始まりました。あさくらさんは歴史の闇に埋もれていた尚之助を発見し、眩いスポットライトを当ててくれました。
あさくらさんは、「新島八重を歩く」という大河ドラマ関連本の編集協力を頼まれ、調べているうちに、川崎尚之助という謎めいた人物に興味を持って調べ始め、貴重な資料を発見しました。
精力的な調査で、江戸、会津、斗南時代のことはわかってきましたが、生まれ故郷といわれている出石時代のことがよくわからないので、兵庫県豊岡市まで行って調査して、細い糸を手繰っていった結果、一族子孫がいることがわかり、私にたどり着きました。
私は、歴史小説が好きで、自分の先祖を知りたいという欲求も手伝い、それからというもの除籍謄本をとるなど、私も川崎尚之助の調査を始めました。
 
あさくらさんが編集協力をした「新島八重を歩く」、あさくらさんが編集協力をした「新島八重を歩く」

(2)尚之助の痕跡の発見
明治9年の出石大火の影響もあり、出石藩川崎家に関する資料は豊岡市にも私の家にも何もなく、先祖からの言い伝えも途絶えており、調べは難航しておりましたが、そうこうしているうちに、出石藩川崎家の菩提寺は出石の臨済宗願成寺であること、そして40数年前に、父に連れられて無縁仏になっていた川崎家の墓石群を見に行ったことを思い出しました。
2012年4月25日、あさくらさんは豊岡市教育委員会の支援も得て、願成寺の過去帳等を丹念に調査し、明治時代中期に作られた墓石台帳の中に、この寺で葬られていない川崎家の人物で、尚之助と同じ命日の墓の記録を発見しました。おおげさにいえば、尚之助の痕跡を発見した歴史的瞬間です。

出石藩川崎家の墓(昭和44年頃)、明治中期に作られた墓石台帳と配置地図

(3)墓跡の発掘
墓の記録はありましたが、残念ながらその墓は残っておりませんでした。実は40数年前に無縁仏になっていた墓を父が見つけた後、地元の縁者に請われて墓地は譲っていたのです。そして数年後、墓地は表面を整地し、新しい墓石が建てられてしまっていたのです。
香美町の実家にあった父親の遺品の中に、40数年前に撮った出石藩川崎家の墓の写真も見つかり、尚之助の墓跡が特定できたので、あさくらさんの提案もあり、尚之助の遺品探しのために墓跡を掘ってみることにしました。
5月の晴れた日の土曜日、あさくらさんの指導の下、願成寺の住職様、墓の現在の持ち主、神戸新聞社記者の立会もいただき、シルバー人材センターの方にお願いして墓跡を堀りました。小さな白い盃が出ました。これは誰のものだろう、もしかしたら尚之助の遺品かも知れないと期待が膨らみました。

墓跡発掘のメンバー、出土した盃(尚之助の印として埋葬されたもの)

(4)出土した盃
さて、出土した盃を豊岡市教育委員会が鑑定してくれました。盃は初期の出石焼きであること、そして絵柄模様の部分が火事などで焼けて色が変わっていることに注目して、この杯は明治9年の出石大火の後に埋められたものである可能性が高い、だとすれば、明治8年に死んだ尚之助の遺品の代わりの印として埋めた可能性が高いとの判定がされました。

(5)新島襄研究の大家・同志社大学名誉教授北垣宗治先生との遭遇
地元では尚之助のことは、ほとんど話題になりませんでしたが、インターネットでは尚之助についての記事がいくつか掲載されており、その中の尚之助に関する記事について、やりとりしているうちに、同志社大学名誉教授北垣宗治先生につながりました。
何と北垣先生は、新島襄研究の第一人者(新島研究会元会長)で、生家が私と同じ兵庫県香美町で、しかも先生が幼少の頃(70数年前)、たまたますぐ近所に住んでいた私の伯母夫婦に可愛がられていたという驚くべきことが判明しました。8月、先生の招きで、同志社を訪問し、先生と新島研究会の皆様とお会いしました。

同志社新島研究会の皆様と、前列左端:北垣宗治先生、前列右端:本井康博先生(八重の桜の時代考証担当)

(6)尚之助フィーバーを巻き起こした香住鶴の酒「尚之助
2012年8月のお盆休みに、香美町の酒造会社香住鶴に立ち寄り、社長で同級生の福本芳夫君と、雑談をしておりました。冗談半分にいった「川崎尚之助の酒を造ったらどう? 話題性があって売れるかもしれないよ」ということばがきっかけで、「川崎尚之助」の酒造りの話が決まりました。
酒造りが軌道に乗った9月のはじめ、福本社長は尚之助の生誕地である出石の酒屋さんに前宣伝に行き、ついでながら豊岡市役所にも立ち寄り、懇意にしている市長の中貝さんに、尚之助の酒の話をしました。これが豊岡市の尚之助フィーバーの発端となります。

香住鶴 福寿蔵(享保10年1725年創業)と福本社長

(7)豊岡市長の大奮闘
豊岡市はこれまでジオパーク、コウノトリ、城崎温泉等を観光の目玉にしていたのですが、思いがけず尚之助という大河ドラマの大物が出現したわけです。
以後、矢継ぎ早に、尚之助のHPを立ち上げたり、会津若松市の室井市長を訪問されたり、NHKの雑誌に広告を載せたり、尚之助の講演会を開催するなど、まさに香住鶴の酒「尚之助」が豊岡市に尚之助フィーバーを巻き起こしたのでありました。
豊岡市長の熱意は実りました。9月1日の放送の八重の桜紀行で出石が川崎尚之助の故郷として放映されたのです。

豊岡市が立ち上げた尚之助のHP

(8)「八重の桜」のシナリオを変えた?あさくらゆう著「川崎尚之助と八重」
2012年12月、あさくらさんの「川崎尚之助と八重」を知道出版が出版してくれました。この本は、あさくらさんの1年以上におよぶ調査の成果が書かれておりますが、まだ川崎尚之助は無名です。そんななか、知道出版の加藤社長が、私の高校の同級生という関係かつ加藤社長の奥様が会津二本松出身という素晴らしい偶然があり、天の啓示かも知れないと思いきって出版してくれたのです。

ドラマでは 尚之助は会津藩士になり、八重とも結婚し、最後まで戦って、その上会津藩の飢餓をすくために動いて、最後は不運な結末を迎えるという風に描かれました。もしこの本が出なかったら、川崎尚之助はこれまでの伝承のとおり、まったく違ったよくないイメージで放送されていたかも知れません。

これまでの伝承では、尚之助は八重と結婚したかどうかもわからないし、正式な会津藩士にもなっていないので、戦のどさくさに紛れて逃げて、やがて東京で貧乏な暮らしをして死んでしまうとされていました。この本は、同志社より名誉ある「新島研究論文賞」を受賞しました。

新島研究論文賞記念、講演するあさくらさん、2013年2月12日新島会館にて

(9)清酒「八重さん」の会津若松末廣酒造との不思議な因縁
尚之助の酒に関連した話ですが、会津若松に江戸時代創業の末廣酒造という老舗酒蔵があります。社長の新城猪之吉氏は、山本家の墓がある臨済宗大龍寺の檀家総代で、何十年も前から、山本覚馬・八重を尊敬して、無縁仏になっていた山本家の墓を守ってきました。新城社長は八重の桜を記念して、2012年秋に「八重さん」を発売しました。この末廣酒造の新城猪之吉社長と香住鶴の福本芳夫社長は偶然ですが、親友同士でした。社会人になった時の企業合同の研修が縁で親友になったとのこと。

その親友同士が、全く偶然に尚之助を発売し、かたや八重さんを発売する、本当に信じられない不思議なご縁です。これ以後、新城社長には川崎尚之助のことで大変なお世話になっております。

末廣酒造・新城猪之吉社長と純米吟醸酒「八重さん」、山本家の墓(臨済宗大龍寺)
 

(10)伯爵平田東助、米沢藩内藤新一郎との不思議な因縁
尚之助と同じ江戸の大木塾で学んだ米沢藩士平田東助は、先の話のとおり、後に明治の元勲山縣有朋の側近として伯爵にまで上る人ですが、偶然にも、私はその曾孫である平田邦彦氏と数年前、知合い、友人になっております。ちなみに平田邦彦氏は都政新聞の社主として活躍されております。

また、平田東助は米沢藩の医師伊東家から平田家の養子に入っておりますが、実家の兄伊東祐順には、尚之助の砲術の弟子で八重たちのお世話もした米沢藩士内藤新一郎の妹花さんが嫁にいっております。余談ながら、伊東祐順の息子の伊東忠太(いとう・ちゅうた)は、一ツ橋大学兼松講堂や築地本願寺の設計などをした有名な建築家で、建築家として文化勲章を受章した初めての人です。また、平田東助の孫には、松下電器の会長だった松下正治がいます。戦前に平田伯爵家から松下幸之助の養子になった人物です。

伯爵平田東助、平田邦彦氏と私

(11)柴五郎陸軍大将との不思議な因縁
ちょっとこじつけですが、斗南藩で、尚之助と共に米の取引をして事件に遭遇し、裁判にかけられた柴太一郎には、有名な弟・五郎がいます。五郎は苦学して会津人ながら陸軍大将になりますが、北京の公使館付武官として駐在していた時、中国民衆が蜂起した義和団の乱がおこり、柴五郎が中心となって列強の公使館を守り抜きます。イギリス国王を始め列強各国から賛美され、世界的に有名な日本陸軍軍人となります。

1963年、その義和団の乱をモデルにしたハリウッド映画「ペキンの55日」が世界的にヒットします。主役はチャールトンヘストンで柴五郎の役は、当時新人の俳優だった伊丹十三が抜擢されます。ちょうどその年に、私は伊丹十三と会うことになります。伊丹十三は、その年、日活の画執炎の撮影で、ヒロイン浅丘ルリ子の相手役に抜擢され、私の田舎兵庫県香美町へロケにやってきました。物見高い川崎少年(当時は中学生)はロケ地に行き、伊丹十三や浅丘ルリ子さんたちと記念写真など撮りました。

柴太一郎、柴五郎陸軍大将

(12)地元の皆様の心がこもった「川崎尚之助の供養の碑」
川崎尚之助は、出石藩出身だということがほぼわかってきた2012年12月に、出石の弘道小学校の元校長先生の川見先生をはじめとする地元有志の方々が供養の碑を建てようという計画をたて、寄付を募って高さが2mもある刀の形を模した立派な碑を建ててくれました。何と数百人の方々が寄付していただいたとのことです。ありがたいことです。

川崎尚之助供養の碑、川崎尚之助供養の会に全国から集まった川崎家の縁者・関係者の皆様

(13)会津祭り
毎年9月22日頃、会津若松で会津祭りが開催されます。町をあげての大きな祭りで、中でも会津藩公行列は、500人もの人が殿様や藩士、姫様等に扮して市内を行列する圧巻の歴史絵巻です。今年は、八重の桜を記念して八重や尚之助も登場することになり、役柄の募集がありました。

私も冗談半分で応募したところ、山本権八の役をいただきました。
山本権八となって鶴ヶ城そして市内を1日行列して参りました。私の背中にいる尚之助も会津若松に里帰りでして喜んでくれたと思っています。
 
会津祭り 藩公行列出陣式、川崎尚之助、八重、山本権八(私)

(14)今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」との不思議なご縁
今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」との不思議なご縁の話です。出石に官兵衛という出石蕎麦の店があります。官兵衛の御主人は小寺さんとおっしゃって、何と官兵衛が秀吉の軍師となるまで長年姫路で仕えていた小寺政職(こでらまさもと)の弟の子孫です。

小寺さんは、40年ほど前に、当時ブームになっていた出石蕎麦屋を開くべく、出石にやってきて、たまたま売に出ていた土地を買ったのです。その土地は、何と川崎尚之助の生家と背中合わせの土地だったのです。昨年の秋に出石の方に紹介されて初めてお会いし、その面白い偶然に驚きました。
 
出石蕎麦官兵衛 小寺禎之助さんと

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結び
あさくらさんと遭遇してからの2年近くになりますが、本当にいろいろなことがありました。
数々の不思議なご縁で感じたことは、人と人は見えない糸でつながっているので、ご縁は大切にして、いつも誠意をもってお付き合いしなければいけないということ、そして、尚之助の霊が何十年も前からこの時を待って私を導いていたのではないかということです。



講座企画・運営:吉田源司
テキスト制作: 川崎 修
会場写真撮影:川崎 修
HTML制作:和田節子


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